陣屋と陣屋町

【写真は 三日月藩乃井野陣屋】

 

 かつて、播磨北西部を中心に数多く存在した陣屋。江戸時代、主には城を持たない大名の住居兼役所としての役割を担っていました。幕府直轄領の代官や上級旗本も構えたほか、大藩の家老が所領地に置いたり、大名の飛び地に出張所として設置したりもしました。その中には、陣屋を中心に「城下町」ならぬ「陣屋町」を形成、その面影を今に残す地域もあります。

 江戸幕府は1615(元和元)年、一国一城令によって一つの国には大名が住む一城だけしか建てられないと定めました。しかし、その一城さえも持てない大名は数多く、徳川300諸侯と言われた大名のうち、100余りが「無城大名」という築城が許されない家格だったのです。石高では、3万石以下の大名が該当しました。無城大名が城主格に昇格しても築城は許されず、せいぜい城門を構える程度でした。

 陣屋の構造は城に比べて簡素化されており、行政・居住の機能しか持ち合わせていないものが多かったです。一般的に、城と違って天守や櫓、石垣、土塁といった防御機能をほとんど持っていません。幕府が、無城大名らが陣屋を造る名目で新たな軍事拠点を築くことを許さなかったためです。ただ、幕末頃には天守に見立てた隅櫓や水堀、低い石垣や土塁を築いたり、天守に見立てた二階建ての茶屋を建てたりする場合もありました。

 城に比較して規模が小さく、構造も簡素だったこともあって、廃藩置県後には取り壊されている陣屋が相次ぎました。地域住民や行政の関心も薄くなりがちで保存・復元がおざなりになりがちですが、その価値を見直して保存に向けた動きが各地でみられます。

 陣屋の周りには侍屋敷が立ち並び、そこで生活する武士を相手にする商工人らが集まるなどして規模の大小はあるものの、一つの集団を形づくる地域も多く現れました。それが陣屋町です。もちろん、西播磨にもそんな町がありました。

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