山崎藩陣屋門(紙屋門)

 1615(元和元)年、池田輝政の子・輝澄が3万8千石の宍粟藩を立藩した後、揖保川と菅野川に挟まれた鹿沢という河岸段丘上に築城されました。南の崖に沿って石垣を築き、段丘の南端に本丸を設置。北側に築いた堀の外に武家屋敷、さらに外堀を隔てて城下町が広がっていました。池田家、松井家、池田家(二次)と藩主が交代した後、大和郡山(奈良県)から1万石で山崎藩主となったのが譜代大名の本多忠英。当時、播磨は龍野や赤穂など外様大名による統治が行われていたため、西国に対する警戒・防御の役割を本多氏に任せたのです。本多氏は無城大名であったため、本多忠英が山崎藩の初代藩主となった1679(延宝7)年以降は陣屋と呼ばれるようになりました。

 明治時代以降、大手門をはじめ、徐々に陣屋の建造物は解体されていきました。さらに、道路建設などの整備に伴って土塀や石垣も崩され、外堀、内堀とも埋め立てられて、今は見ることができません。そんな中で、本丸東側の正面玄関に位置し、唯一現存している建造物が山崎藩陣屋門です。別名紙屋門ともいわれ、その名称は、建築資金を寄贈した町方の「紙屋」にちなんだといわれています。建築年代は、「紙屋」が最も栄えた時期である嘉永~安政年間(1850年代)と考えられています。



【紙屋門をくぐると鹿沢城本丸跡 (別名・山崎城)の石碑が立つ】

 

 このように、かつて陣屋や城下町があった場所は、ほとんどが市街地になっています。紙屋門の北隣にある山崎歴史郷土館には、江戸時代末期の山崎城下町の町割を描いた絵図が展示されています。城下町跡には、古い町並みが残っている地区もあり、往時の面影をうかがうことができます。

住所 宍粟市山崎町鹿沢80




▼山崎地区の古い町並み

 盆地地形の平地部に形成された市街地で、宍粟市の中心部として都市機能や交通機能が集積しています。実は江戸期の宍粟藩独立に伴って置かれた陣屋と城下町を基礎としています。鍵の手型の道路など城下町の町割り、最上山(さいじょうさん)の麓に造られた寺院群、酒蔵の集積、点在する町家などに、城下町の面影を見ることができます。

 播磨国と因幡国を結ぶ交通の要衝だった山崎地区。城や陣屋を中心にして古くから栄えました。伝統的な町並みや歴史的資源の価値が見直され、町家を改造したカフェやレストランなどが誕生しています。兵庫県の「歴史的景観形成地区」の指定を受け、日々の暮らしと歴史・観光が調和した町づくりが進められています。

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