西播磨山城イレブン ~その1~

 中世山城跡が多く残る播磨地方。中でも西播磨は、鎌倉末期から室町にかけて一帯を統治した赤松円心とその一族によって、要所要所に築かれました。城といえば、当時は山頂に造営するのが普通で、城主は周囲を睥睨(へいげい)するかのようにライバルの動向に目を光らせていました。山城を舞台に栄枯盛衰のドラマを繰り広げた武将たち――。「山城巡り」が静かなブームになっている今、「兵どもが夢の跡」をたどってみてはいかがでしょうか。


感状山城(かんじょうざんじょう)

 築城時期は定かではありませんが、1336(健武3)年、赤松円心の三男・則祐が築いたとの説があります。父・円心が足利尊氏討伐に向かった新田義貞軍を迎え撃つため、円心が白旗山に山城を建造したのに応じて建造したとされ、後に幕府を開いた足利尊氏が則祐に感状を与えたことから、感状山と呼ばれるようになったといわれています。一方で、「播磨古城記」などによると、鎌倉時代に瓜生左衛星門尉が建造したとの記述もあります。相生市矢野町瓜生と森にまたがる感状山(標高301m)の尾根に位置し、石垣や曲輪(くるわ)などの建物跡などが数多く残っています。ただ、その構造から後世に改修されたのではとも考えられ、感状山城は時の権力者に大いに活用され続けたと言えるでしょう。

★見どころpoint

 建物が建っていた曲輪跡は、石垣に囲まれた本丸にあたる城主の居住区、そのやや下方に備えた隅櫓跡、中腹に建てられた食糧庫跡などがあります。さらに山を下ると大手門跡や井戸跡が。大手門は総石垣造りで石段が築かれ、次第に幅は狭くなるなど大軍が一気に攻め上がれないよう工夫されているのが分かります。山城には登山道が設けられ、遺構をじっくり見学できるとともに、山からの眺望も楽しめます。



龍野古城(たつのこじょう)

 播磨一帯を勢力下においていた赤松氏の一族・赤松村秀が15世紀後半頃に、鶏籠山(標高211m)山頂に築城したとされます。以来、政秀、広貞、広英と龍野赤松氏の居城として使われました。1577(天正5)年、羽柴秀吉による播磨侵攻で開城。秀吉の軍門に下ってからは、蜂須賀正勝や福島正則ら秀吉配下の家臣が城主となりました。山頂には城の要となる本丸が築かれ、その傍には城山八幡宮があり、本丸から南の尾根上には、二の丸が築かれていました。野面積みの石垣や土塁、竪堀が残っており、中世山城の雰囲気を漂わせています。江戸時代になると、山麓に龍野城が築城され、廃城となりました。

★見どころpoint

山城跡に続く登山道が整備されており、所々に「土塁跡」や進路を示す掲示板があるので安心です。コース沿いには小規模な石積みが散見され、二の丸跡のひらけた削平地へ。さらに登ると、曲輪の土台となった石垣などが姿を見せます。野面積みながら整然としており、重要な建物が建てられたことが想像できます。本丸跡には説明版と石碑が立ち、往時をしのばせてくれます。様々な遺構が比較的良好な状態で各所に残っており、見応え十分です。



城山城(きのやまじょう)

 赤松円心の三男・則祐が、亀山(きのやま)(標高458m、たつの市新宮町下野田・馬立、揖西町中垣内)の山頂に築城しました。もともと、この地には、663年の白村江(はくすきのえ)の戦いで敗れた大和朝廷が、唐や新羅の侵攻に備えた古代山城がありました。1441(嘉吉元)年、則祐の孫・満祐が将軍・足利義教を殺害した「嘉(か)吉(きつ)の乱」では、京から播磨に引き揚げた満祐が追討軍に追われて、城山城で非業の死を遂げました。「嘉吉の乱」での落城後、1538(天文7)年、出雲から播磨に侵攻した尼子晴久が城山城に陣を構えますが、1540(天文9)年に尼子軍は播磨より撤兵し、その後、城山城は使われていません。

★見どころpoint

 古代山城と赤松則祐が築いた山城が同じ場所にあり、県内の古代山城は、ここでしか確認されていません。山上には多数の郭や堀切、土塁などの遺構が残っています。山頂北西には「亀ノ池」と呼ばれる池があり、山頂にありながら澄んだ水を豊富にたたえています。「亀岩」という奇岩も残っています。山麓には、古墳時代後期の馬立古墳群があり、城山城跡を中心に歴史と文化・自然に彩られています。



尼子山城(あまこやまじょう)

 赤穂市坂越下(しも)高野(こうの)にある標高約250mの山塊。古くから山城跡とされ、尼子山と呼ばれています。「赤松家播備作城記」によると、尼子義久が居城していましたが、天文年間(1532~1555年)に落城したとされます。「播州赤穂郡志」では、1563(永禄6)年に尼子義久が毛利元就に攻め落とされ、その後、赤松氏一族の富田采女が修復しましたが、秀吉に攻められて落城したとされています。毛利軍の城攻めに際しては、尼子義久を攻めあぐねていましたが、麓の集落に暮らす老婆が毛利軍に抜け道を教えたため、落城したとの言い伝えが残っています。江戸時代には山頂に祇園社が祀られ、雨乞いが行われていたことから、「雨乞山」と呼ばれていたとされます。

★見どころpoint

 高野集落の民家横に「尼子山城跡登山口」の標柱があります。そこから、見落としてしまうような細い道を登っていきます。7合目付近からは岩がちな道が続き、石鳥居が立っています。山頂には尼子神社の拝殿と「尼子岩」と呼ばれる巨岩があり、戦のときに落とすつもりだったとの伝説が残っています、巨岩の上から瀬戸内海の絶景が望めます。往時をしのぶものとしては、建物跡が残っていますが、堀など典型的な山城の遺構は確認できていません。



利神城(りかんじょう)

 南北朝時代の1349(貞和5)年、白旗城の北の守りの要として、赤松一族の別所敦範が利神山(373m、佐用町平福)に築城したとされます。江戸初期になると、姫路城主となった池田輝政の甥・由之が利神城の城主になります。現存しているのは、1601(慶長6)年から由之による5年の歳月をかけた大改修の名残で、東西200m、南北350mの総石垣造り。高さ10m近くの長大な石垣を築造しています。その際、三重の天守なども築かれたとされ、空に高くそびえる姿から、別名「雲突城」ともいわれています。これを見た輝政は、その堅牢さに驚き、天守の破却を命じたという伝承が残されています。徳川幕府の警戒を恐れたためといわれています。 

★見どころpoint

 現在、石垣崩落の危険性があるため、登山は禁止されています。2020年度から3か年をかけて応急対策工事を進めています。山頂の城跡は登らなくても周辺からはっきり見え、なかでも朝霧に浮かぶ姿は幻想的です。城下町だった平福は、因幡街道の宿場町として栄え、古い町並みが現存します。宮本武蔵初決闘の場や平福郷土館のほか、佐用川沿いの「平福の川端風景」も情緒たっぷりで、旅情を掻き立ててくれます。

まるっと西播磨ストーリー

兵庫県西播磨地域(相生市、たつの市、赤穂市、宍粟市、太子町、上郡町、佐用町)の魅力あふれるストーリーを紹介いたします。

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