西播磨山城イレブン~その2~

上月城(こうづきじょう)

 南北朝時代初期の1336(建武3)年、赤松氏の一族・上月景盛の築城。通説では、もとは谷を挟んだ北側にある太平山(標高280m)に築きましたが、現在の荒神山(標高194m、佐用町上月)に移したとされます。播磨・備前・美作の三国境に位置したことから、山名、尼子氏らの勢力争いにさらされ、赤松氏が城主だった1577(天正5)年には羽柴秀吉の「播磨攻め」で落城。この時の秀吉軍による攻めは、城内の人間を皆殺しにするという凄惨なものでした。翌年、秀吉から城を任されていた尼子勝久は毛利輝元の大軍に包囲され、自刃。やがて上月城は戦略的価値を失い、廃城となりました。

★見どころpoint

登山口は、上月歴史資料館が目印。登山道は整備され、短時間で登れるので初心者にはお勧めです。遺構は頂上部にある曲(くる)輪(わ)2か所を中心に尾根筋や斜面にも曲輪があり、北側に一重、西側に二重の堀切が確認されています。本丸跡はそれほど広くありませんが平らに造成されており、赤松氏の供養碑が残っています。麓には尼子勝久やその部下・山中鹿介の追悼碑、戦没者慰霊碑などもあり、激戦地であったことを物語っています。 


白旗城(しらはたじょう)

 鎌倉幕府を打倒しながらも、赤松円心は「建武の新政」下で後醍醐天皇に疎まれたことから、処遇に不満を持ち反旗を翻した足利尊氏に味方することに。しかし、尊氏は京で敗れて西へ敗走。円心は、九州に落ち延びて捲土重来を期すよう尊氏に策を授けました。

1336(建武3)年、尊氏を追撃するため、新田義貞は6万の大軍を率いて、播磨に進撃します。赤松円心は白旗山(標高440m)の山頂に白旗城を築き、わずか2千の手勢で立てこもり、50日以上にわたって新田軍に抵抗。その間、円心は三男・則祐らを九州に派遣して尊氏に援軍を依頼し、大軍を率いた尊氏が東進を始めたため、新田軍はやむなく京に引き返しました。白旗城の攻防戦は、再起を期した尊氏の反転攻勢の原動力になった戦いと言えます。その後も、白旗城は赤松氏の中核拠点として固守された難攻不落の名城です。この史実にならい、地元住民や行政機関が「落ちない城・白旗城」として受験生らに㏚、合格祈願の絵馬奉納などを通じて地域の活性化に取り組んでいます。

★見どころpoint

 山城跡へは、赤松側からと鞍居側からの2ルートを整備。山頂にある城跡は東西約560m、南北約400mにわたって広がっています。本丸や二の丸、三の丸、侍屋敷などの曲輪跡や堀切、土塁、石積などが残り、当時の面影を今に伝えています。「天然の要害」としても知られており、登るにはトレッキングシューズがお勧め。合格祈願絵馬は、上郡町観光案内所や赤松公民館、白旗山麓(赤松登山口)で入手でき、河野原円心駅、白旗山麓、山頂の3か所に絵馬掛け所が設置されています。



楯岩城(たていわじょう)

 建武年間(1334~1338年)に赤松円心の長男・範資の子、則弘が城山(標高250m、太子町上太田)に築城しました。巨岩が楯のように並んでいることから、名付けられたとされます。城山の麓部分には、太子龍野バイパスの城山トンネルが通っています。山城は「嘉吉の乱」でいったん落ちましたが、後に円心の次男・貞範の曽孫、貞村から5代にわたって居住。羽柴秀吉による播磨攻めで、落城しました。山頂の本丸跡には、テレビ塔が立っています。南と西北に延びる尾根に沿って二の丸、三の丸などの遺構が残っており、かなり大規模な山城だったことが伺えます。本丸跡は開けた場所で、江戸時代は旗振りや狼煙(のろし)の中継所だったそうです。

★見どころpoint

 曲輪跡が数多く残っているのが特徴で、山城の由来となった巨岩も多く転がっています。長さが100mほどもある土塀跡や石垣跡、堀切跡などの遺構も確認できます。山頂の見晴らしは良くありませんが、日当たりが良く落ち着いた雰囲気。若王子神社に登山道入り口があり、登山道が整備さえていますが、小石の転がる急峻な砂地個所があるため、滑らないように注意してください。山麓の黒岡神社には奈良時代、海路攻め込んできた新羅を打ち破った、藤原貞国の古墳が残っています。


長水城(ちょうずいじょう)

 南北朝時代に播磨守護・赤松則祐が長水山(標高584m、宍粟市山崎町五十波ほか)に築いたとされ、「嘉吉の乱」以降は赤松政則が一門の名家・宇野氏を城主に任じました。宇野氏は宍粟郡周辺にも支配を広げ、龍野赤松氏と並ぶ地域領主に成長。数多くの配下を従え、長水城を中心にして各地に城郭を造らせました。羽柴秀吉の播磨攻めの際には最後まで抵抗しましたが、1580(天正8)年に落城しました。山城は、山頂の本丸を中心に、三方に延びる尾根に曲輪が築かれ、山麓には平時の居館跡が残っており、西播磨にその名を轟かせた宇野氏にふさわしい堅固な山城です。本丸跡には、宇野氏の家臣の菩提を弔うため日蓮宗信徳寺が建立され、宇野氏の一族郎党の供養塔も残されています。中世山城にしては珍しい高石垣が残っています。

★見どころpoint

山頂の本丸跡の石垣は、中世の山城としては珍しく見上げるほどの高さがあり、迫力満点。見晴らしも良く、雄大なパノラマを楽しめます。途中にも井戸や曲輪と思われる遺構が残っています。宍粟市立伊水小学校の裏手にある公園奥から登山道が始まります。急こう配な個所も多いので、休憩を取りながら登るのがお勧め。頂上まで徒歩40分の所まで車で行くことができる五十波側のルートもあります。


篠ノ丸城(ささのまるじょう)

 最上山(標高324m、宍粟市山崎町横須ほか)を登った先、通称・一本松と呼ばれる場所にあり、約3.5㎞北西に位置する長水城の支城としての役割を果たし、長水城と同様、宇野氏が居城していました。文和年間(1352~1356年)、赤松円心の次男・貞範が築いたと伝えられますが、その子・顕則の頃ともいわれています。円心の叔父・釜内範春が山岳陣地を築いていたともされ、定かではありません。三木城を攻略した羽柴秀吉により1580(天正8)年、播磨攻めの総仕上げとして攻め落とされました。播磨における戦国時代の終焉です。その戦いに黒田官兵衛が参加、宍粟郡を与えられて篠ノ丸城に居城したのではと推測されますが、確かなことは分かっていません。本丸跡には石碑が立ち、二の曲輪、三の曲輪、土塁跡などが残されています。

★見どころpoint

 最上山は、地元では「もみじ山」として親しまれているだけに、もみじ祭りの時期に登るのがお勧めです。登山道はきれいに整備され、標高100m程度の所にある最上山公園までは車で登ることができるので、初心者も安心して頂上を目指せます。山頂は本丸跡を中心に、北と西に曲輪が広がっています。本丸跡は広々としており、二の丸からの眺望も素晴らしいものがあります。



坂越浦城(さこしうらじょう)・茶臼山城(ちゃうすやまじょう)

京都・東寺に伝わる中世の古文書「東寺百合文書」(「播磨国矢野庄供僧方年貢等算用状」)によると、1454(享徳3)年に「坂越浦城」「坂越城」と書かれており、この頃、築城が始まったと思われます。「赤松家播備作城記」でも「坂越城」として記されています。また、龍野城主だった赤松村秀は、坂越浦城を通城にしていたとの記述が「播磨鑑」「播州赤穂郡志」にあります。今は公園として整備され、当時の面影はありません。江戸時代には赤穂藩の番所が城址に置かれ、坂越浦に出入りする船の監視をしていたといわれています。

坂越浦城の背後に控える茶臼山(標高約160m)山頂にあったのが、茶臼山城です。「赤穂郡誌」には、「嘉吉の乱」で播磨国守護・赤松満祐を滅ぼした山名持豊が、赤松氏の残党に備えるために築城、しばらく駐在したと記されていますが、ほかの文献の記述と矛盾があり、実態は不明です。

★見どころpoint

 大避神社の参道から左折して坂道を上ると、案内板がある公園にたどり着きます。それが坂越浦城跡です。古い町並みで知られる「大道」から、歩いても10分程度ですが、車で乗り付けることもできます。憩いの場として整備された公園からは波静かな坂越港と、そこに浮かぶ生島の絶景を目にすることができます。茶臼山城跡にはテレビ塔が建てられ、無数の石仏があるだけで、遺構は残っていません。

まるっと西播磨ストーリー

兵庫県西播磨地域(相生市、たつの市、赤穂市、宍粟市、太子町、上郡町、佐用町)の魅力あふれるストーリーを紹介いたします。

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